迷えるオタク

感情置き場

話の中身はどうでも良い

会社の飲み会をしてきました。
面白くなかったので、飲み会中に考えていたことを軽く書きます。
多少酔ってる。
どんな話を面白いと思うかは人それぞれですが、よくある話として「過去に苦労した出来事があって、その周囲で発生した小さな出来事」が盛り上がると思いました。
小さな出来事はそれ自体で見ればよくあることで、大事なのは内容よりもタイミングなんだなあと。
それを自分に当てはめて考えてみました。
推しを好きなのは精神的に辛い時に偶然出会った小さな幸せだから、という考えに至ってしまいました。
中身が良いから好きだと自分に言い聞かせているだけで、そんなものは全く関係がなくて、ただのタイミングなのかもしれないと思うとちょっとセンチメンタルな感じ。
おしまい。

興味の有無について その2

興味のある事ない事にはどうしても波がある。
僕にも、藤田さんの性格が好きな時期があり、顔面が好きな時期があり、演技が好きな時期があり、〇〇が好きな時期があった。
〇〇は無限に挙げられそうな気がする。
逆にある時期は〇〇がそんなに好きでもない時期があった。
その波が起きるきっかけは、自分の精神状態であったり、環境であったり、他のオタクとの会話だったり、いろいろある。
でも、思い返せば藤田さんのことは今まで常にどこかの部分で好きだったことに気がついた。
これに気づいた時、とっても幸せな気持ちになった。
好きがずっと続いている。
でもこの気づきを他にも当てはめて考えるとちょっと悲しくなる。
たとえば、奈々さんのことは頭の中から消えている時期があった。
ライブもアニメもラジオも何一つ追わない時期があった。
興味が失せている時期があった。
そこが自分の中で推しとそれ以外を分けている壁なのかもしれない。
藤田さんは推しで、奈々さんは推しでない。
ふとした時に興味がなくなってしまう事に対して推しという言葉を使えない。
言葉の重さが怖い。

藤田さんの何かをこれからも常に好きで居続けらるのか、急に興味がなくなってしまうのではないか。
この不安は推しという言葉を使うたび、イベントに行くたび、メールを書くたびに付き纏ってくる。

他にも、新しく好きになった事から急に興味を失ってしまうかもしれない。
人に対してもだ。

そんな恐怖を感じているから種を蒔き続けて、新しく好きな部分を見つけるために今を楽しみ続けないと不安で仕方ないのかもしれない。

興味の有無について

1.
何かに興味を持つことはとっても難しいと思う。
世の中には色んなことがあって、自分が生まれてから色んなことに触れているのに興味がある事はほんのひと握り。
他人の興味がある事が自分にとって興味がある事とは限らない。
それは自分と他人を入れ替えても、興味があるとないを入れ替えても成り立つと思う。
興味がある事は少ないし、他人と合う事も少ない。
興味のある人が多い事と少ない事はどうしても出てくる。
人間が沢山いるのだから当然その差は出る。
確率と分布の話なだけだ。
だから他人の興味の有無を気にする事はない。

2.
興味がある事をしている時は楽しいし、ずっと楽しいことをしていたい。
これは、あまり掘り下げない。ただなんとなくそう思っている。

3.
前2つで書いた事が理由で、自分が興味を持てる事は大切にしたいと思っている。
でも、どんなに大切にしていても興味が持てなくなる時は来てしまう。
人は移ろい変わってゆくものだから。
そんな時、興味を持てる事が変わっただけなら良いが、無くなってしまったらどうだろうか。
楽しみがなくなってつらいものになってしまわないだろうか。
それが僕は怖い。

4.
だから最近は種を蒔くように心がけている。
興味の有無にかかわらず、触れるだけ触れてすぐ立ち去る。
だがこれに踏み出すのがまた難しい。
興味がないことに触れるのだから面倒で仕方ない。
心の余裕、元気だって必要だ。
楽しいことをしたついで、誰かに誘われてなんとなく、世間で話題なことについてゆく、そんなものを少しずつ積み重ねる。
そうすると未来に興味を持てるものに知らないうちに当たっている。
一度触れたものに再び触れるのは最初ほどエネルギーが要らない。
だから元気な時に種を蒔く。

5.
種が芽吹いたのが最近の宝塚歌劇趣味だった。
全然興味のなかったサッカーのW杯をなんとなく見て思ったことでした。
サッカー、次見るかと言われれば微妙だけど、ちょっと面白いと思いました。

ぽえむ

何かを好きになってもそれを好きと自覚するのって難しい。
たいてい"弱火"。
でも"茹でガエル"のように、気が付いた時にはどうしようもないくらい好きになっていて手遅れだ。
燃え上がるように好きになりたいと思わないわけではない。
でもすぐに冷めそう疲れそうで怖さから踏み込めていないだけなのかもしれない。
少し羨ましくなることもある。
そう思った夏。

シーズン2イベント備忘録

そろそろ1週間が経とうとしている頃にようやく書き始めていてなんなんだと思うかもしれないが、僕自身謎だと思っている。なんか文章を書きたくなったのだ。

金曜から有給をとって飛行機で前日入りした。金曜夜に飲みたかったし、会場が空港からも遠いのでいろいろあって遅れたら嫌だったからだ。イベントは土曜の14時30分から聖蹟桜ヶ丘駅直結のホールでの開催だった。(最初に聞いた時はどこやねんって感じだった)飛行機は昼過ぎだったので、それまで有意義な時間を過ごしてから出発しようと思ってたが、いつも通りお昼頃までゴロゴロして家を出た。特に事件もなく関空・羽田経由で蒲田のビジホに着いた。夜は飲みに行った。やっぱり楽しい人と飲むと楽しい。フォアグラのリゾットが美味しかった、とだけ残しておく。

イベント当日、起きてちょっとするとTLでオタクを観測したので、適当に連絡を取って昼飯に麺を食べるという話になった。11時半に集合と言っていたのに、僕はホテルにチケットを忘れたり、彼は電車にうまく乗れなかったり、お互いに遅延に巻き込まれたりと散々で、結局12時ごろに合流して麺を食べた。食べ終わってもまだ開場まで1時間くらいある。暇だ。物販列に並んで暇を潰そうと会場前に行ったが、知り合いのオタク1人と他のオタクが数人いるだけ。あとは係員が突っ立っていて特に列を作っているわけでもない。そして狭い。ただのエレベーターホールって感じの場所で、すぐ隣がビックカメラだった。この時間は本当にやることがなかった。さいわい、4人がけのベンチがあいていたので僕は座って待機時間をやり過ごせた。この間にあった事と言えば、楽屋の弁当が会場に届けられたくらいだ。

開場するとすぐに物販に行った。グレーとオレンジの番組Tシャツを買って、二枚同時購入特典の缶バッジを貰った。裏に落書きがあって笑顔になった。物販が終わると、することもないので割とすぐに入場、アンケートが手渡された。内容は「藤田さんと内田さんを褒めてください」。藤田さんのオタクは常に褒め続けることを強いられているらしい。アンケートを書き始めると、読める文字で書かなきゃとか、内田さんが読んでもわかるように内輪ネタにならないようにとか、藤田さんに本当に喜んでもらいたいとか、いろいろと気になりだして大変だった。でも、物販がそこそこ押していたので余裕を持って開演前の時間を過ごせた気がする。

イベントは最初に作家の長田さんだけが出てきてぬるっと始まった。席は下手ブロックで中央側の通路側だった。藤田さんが座っているのも下手側でとても見やすかった。イベントの内容はシーズン2の本編に残るし割愛。感想としては藤田さんがプラスの感情でリスナーいじりをするところに出会えた喜びがありました。推しが普段やらないことを見られると嬉しい。

次の開場まで少し時間があった。さっきも書いたが開場前は狭い。会場と同じ建物にある無印良品などの雑貨屋をみて時間をつぶした。他のイベント会場もこれだけ暇つぶしスペースがあれば良いのに。



なんだか書くのがだるくなってきた。(突然飽きる)そのうち続きを書くかもしれないし、書かないかもしれない。気分次第。

この後あったことは、イベントは席が後ろで見えにくかった、聖蹟桜ヶ丘で打ち上げ楽しかった、川崎でサシで飲み直してなぜか気分が落ちた、日曜に羽田でウイママ宣教師との飯が楽しかった、てな感じです。

最後まで読んでくださった方はありがとうございます。

心の壁の明文化

自分が心を開く人にはある共通点がある。心を開く条件といった方が良いだろうか。今までの人生で4人しかこれをクリアした友人はいない。
おおよそ出会って数分会話すれば分かる。
異性にもこれを求めてしまう。だからなかなか彼女ができないと自己分析している。別に良い。それ以外の人など眼中にないしどうでも良いと思っているのだから。
推しにも当てはまる。逆に言うと、水樹さんが推しではない理由でもある。藤田さんは余裕で突破してきた。びっくりするくらい簡単にだ。

この条件に気づいたのは2年くらい前だ。それまではなんとなくの感覚で判断していた。明文化できた時は我ながら感動した。ほぼ過不足なく自分の価値観を明文化できた。でもこれを誰かに言うのはとても恥ずかしいし、ドン引きされてしまいそうだし、相手がそれに当てはまってなかった時にどう感じるか分からない。一度だけ、好きなタイプは?と聞かれた時に、ぼやかして「死生観を共有できる人」と話したことがあるが、多分ぼやかし方を間違えたせいで不正確に伝わっていそうなのが少し悔しい。

この条件はなかなか厳しいものらしい。自分には当てはまる条件だから余裕で突破してくる人ばかりだろうと思っていた。しかし、25年生きて男3人、女1人だ。ままならない。

オタ活と麻雀

麻雀というゲームがあります。
簡単なルールとしては、牌を"綺麗な順に"揃えて最初にアガリの形にした人が点数をもらえて最終的に1番多く点数を持っている人が勝ちというものです。
ポーカーみたいな感じです。
その"綺麗な順"にはいろいろ名前が付いていて、役(ヤク)と言います。
リーチとかタンヤオとか三色同順とか……。
その役をたくさん揃えれば点数も上がります。
しかし、数々の役の中には特殊なものがあります。
ドラです。
ドラというのは、それだけを集めてもアガれず、ボーナスポイントにしかならないというものです。
世の中にはこの「ドラ」に当たるものが多くあると思います。
「加点にはなるけれどそれだけでは決め手にならない物事」が世の中にはあるよねという話です。
とても良いんだけど何か足りない、みたいな状況がけっこうあると思います。
世の中いろんな人がいて皆んな可愛いんだけど全員は推さないよね、という話で今回の話につながってくるわけです。

オタクそれぞれにとっての「ドラ」もそれぞれ違うという点も面白いと感じています。
例えば、僕にとっての藤田さんで言うと、独特な性格の暗さが「アガリ役」で外見の可愛さが「ドラ」になるわけです。
でも、オタクによっては声、演技、etc.が「アガリ役」という人もいて、なんなら僕が「ドラ」に分類した外見の可愛さを挙げる人もいるかと思います。
人と話す時、その人にとって「アガリ役」と「ドラ」が何なのかが分かると一気にその人のことが分かったような気がしてとても楽しいです。
自分が気づいていなかった「役」に気付かされることもあります。
推しに対する新たな発見がまだまだあって楽しいです。
でも時々、僕が「ドラ」だと思っていることを「アガリ役」と思っている人から力説されると途端に冷めてしまう時があります。
そんなに冷めることもないのに、と自分で思うこともありますけど如何ともしがたいです。

常日頃から、自分の感情を疑っているのでこの手の事は良よく考えます。
この友達のどこを好きになって友達付き合いしてるんだろう、とか。
どうして最近話さなくなったんだろう、とか。
そんな事を考えた時に、僕にとっての「アガリ役」と「ドラ」の区別がはっきりしてくるような気がします。
なんとなくここまで生きてきて、僕にとって「ドラ」はとんでもなく広いけれど、「アガリ役」はとてつもなく狭い。
「ドラ」の価値はとんでもなく低くて、「アガリ役」の価値はべらぼうに高い。
だから時々とんでもなくエネルギーをもらえたり、とんでもなくダメージを受けたりするけれど、普段はほとんど波風が立たないような人になってしまったのかとも思います。


そんなところで今回はここまで。
読んでくださってありがとうございます。

P.S. ドラはなくてもアガれるという1番大切な話を書き忘れた。

愛し抜けるポイントがひとつありゃいいのに B'z