迷えるオタク

感情置き場

推しを更に好きになった話

藤田さんがシーズン1(1月29日配信 髙橋みなみさんゲスト回)で

改名するとしたら「誰こいつでずっと仕事してるというか、名前覚えられてそこに色が付かない名前」が良い

という話をなさっていて、久しぶりに感動したのでそのことについて書こうと思いました。

声優を好きな人には経験があると思うんですけど、たとえば、アニメで「あ、この声はあの作品の〇〇役やってた人だ」とか、「この人が出てるなら見ようかな」とか、「□□って番組で△△って言ってた人だ」とか、思うことがあるかもしれません。
キャラを見る時にキャラと関係ない部分、極端に言えば声優本人を連想してしまうことがあると思います。
こういうのが「名前に色が付」くという事なのかなと。
昨今の声優で「名前に色が付かない」というのはとても難しくて、"売れてる声優" 、別の言い方をすればオタクの目に留まりやすくて表舞台に立っていることが多い声優、は少なからず色が付いている状態じゃないかと思います。
藤田さんは視聴者に、藤田茜という存在を脇に置いて、演技だけを聞いて欲しい、作品だけを純粋に楽しんで欲しいんじゃないか、僕はそんな風に受けとりました。
そうであるなら、なんてプロ意識の高い人なんだろう、と思いました。

以上、「茜」という「色眼鏡」でしか見れなくなったオタクのひとりごとです。自分は推しの意思に応えられるオタクじゃないのかもしれないと思いながらオタクを続けます。

現在地

‪ブログではお久しぶりです。

なんだか文章を書きたい気分になりました。
まあ、暇なんです。

この一年でいろいろなことがありまして、僕を取り巻く環境も大きく変わりました。
イベントは軒並みオンラインですし、知り合いのオタク達はVだったりドルだったりいろんな方向に飛び立って行きました。
自分自身も大学を卒業して働き始め、実家を出て一人暮らしになりました。

そんな中にあっても私は相変わらず藤田茜さんを推しているわけです。

でも、以前と比べて藤田さんのことを考える時間が減りました。
これは明らかです。
認めざるを得ません。

じゃあなぜ減ったのか。

推しを好きなのは変わらないけれど嘗てのような渇望がない。
生活スタイルが変わったから、イベントがないから、まあ色々と思い当たることはあるのですが……
"なんやかんやで今の生活に満足している"
逆にいうと負の感情を持つことが減った。
これが理由なんじゃないかと思っています。

藤田さんは負の感情を包み込んでくれる。
私の暗いところも受け入れてくれる。
そんな気がするんです。

つらい時は藤田さんに生かされていました。
これは事実です。
とても感謝しています。

つらくなったら昔のように戻るんでしょうかね。
嘗てのように藤田さんを異常なほどに追うようになったら……
それは心がしんどいサインなのかなあ……

そんなことを考えながら暇な朝を過ごしています。

灰色パーカー公録と諸々

いろいろ書きたいけど覚えてない部分が多い。なんてったって雑談だもの。


まずはじめに。
皆さまお疲れ様でした。
台風15号の影響で電車が止まったり、電車が動かなかったり、電車が運休したりで大変だった事と思います。
かくいう私も台風の影響をもろに受けました。夜行バスから新幹線に切り替えて早めに帰りました。
新幹線って高いですね。快適ですね。逆に夜行バスってJRバス以外は意地でも運行するんですね。

さて、イベントの話です。
端的に言って素晴らしかった。
いつも通りのトーク、客と演者の距離感、オフマイクのトーク、生歌、新情報発表どれを取っても素晴らしかった。公録の構成はこうあるべきだと言わんばかりのイベントでした。

流れ的には会場アンケートを読んでの雑談で、話の内容はオンエアを聞けばいいので割愛します。なので、会場に居たからこそ楽しかった部分を書きたいと思います。藤田さんの仕草。これは文句無しで可愛いかった。パーカーが暑そうだとか、ラジトレって言う時の鷲崎さんに向ける目線だとか、話を振られた時にするだんまりとか、良い話を思いついた時の表情とかです。いつもは動画なし編集ありで見えない部分を見られてほんとに良かった。欲を言うと、作家の浅野さんもステージに上がって欲しかった。いつも録音しているブースには浅野さんもいるだろうし、そこのやり取りも見たいと思ったのは欲張りでしょうか。あと、アンケートを選ぶ作業を作家に任せてしまっても良かったのかなとは思いました。
次に良かったのはうるせえ奴は全然いなくて、演者が求めた時にだけ声を出す雰囲気だったことです。第1部で鷲崎さんがボルダリングという単語を思い出せない状況を藤田さんと2人でコントにしようとした時に客が答えを言ってしまい、それをたしなめたタイミングで客も雰囲気を掴んだ気がします。
そして肝心の生歌。スタッフがギターを舞台袖から持ってきた時は泣きそうになってしまいました。藤田さんはしばらく人前で歌わないんじゃないかって私の心のどこかで思ってたんでしょう。歌うという事実に完全に気が動転していました。2部になってようやく藤田さんの表情まで見られた気がします。歌う前は吐きそうだとおっしゃっていましたが、いざ歌うと良い表情してたと思います。感無量です。ありがとう。
イベントの最後には新情報の発表まであって。どれだけこっちを喜ばせてくれるんだと。ほんとうにありがとう。
こんなイベントが増えるといいね。難しいとは思うけど。

最後になりましたが、前日に泊めてくださったcさん、良い席をくださったdさん、青Tをくださったpさん、そして台風や次イベにもかかわらず飲みに付き合ってくださった皆さん、ありがとうございました。

僕の思い込みかもしれないけどね

1年半強、2年弱‪、今まで推してきて思ったこと。
あの人、ライブでステージに立つのは嫌いじゃないけど苦手ではある思うの。
役に真摯だしファンの評判めちゃ気にしそうだし。‬
‪僕の勝手な推察だから全く違うのかもしれんけど。‬

カキカキ

そこそこ長い文章を書いている時は思考が先行して文字を打つ速度が追いつかないせいか、文を書き進めるに連れて、思考内容と打っている文の内容がかけ離れていってしまいます。原因を考えるとすれば、作業記憶というのでしょうか、一時的に覚えていられる事柄が人より少ないという自覚が私にはあります。その結果、論理飛躍が多発し、自分しか分からない文章を錬成してしまうことが結構あるな、と思いました。

まじめに文章を書くときは何回も読み返して自然な流れになることを意識しますが、適当に書きなぐってるときはこんなもんです。

蛇に足を書いてかっこよくなることもある

ふと、とある方のブログを読んでました。別にその方のファンでもなんでもなく、ブログをたまーに読むくらいなんです。その時、私はなんでもない話を読んだり聞いたりするのが好きなんだなと気付きました。なんでもないブログ、なんでもないラジオ。なんでもない、が良いんです。変に受けを狙ってみたり、飾ってみたり、そういった作為を感じてしまうと引いてしまいます。しかし、人がしているのはあまり好きではないというのは前述の通りですが、なぜか私もやってしまう時が多々あります。欲が出てしまうのでしょうね。蛇足というのでしょうか。現状が実は最適なのに余計なものを足してしまう。しばらく後になって、あぁやってしまった、と思うのです。でも、何か作品を作る人にはこれがないと発展もないのだろうなあと思います。やりたがりの人。好きじゃないけど居ていいと思います。 私は嫌いだけど居て良いんだよ。これは割と私の真ん中にある信念だと思いました。

閑話休題

このような味付けの塩梅ってめちゃくちゃ人による事で難しい事だと思います。その中で、私の推し様はこの波長がとても好みなんです。ちょっとした気の利かせ方がパーフェクト。この人の作るエンタメはすげーや、と無限に思い続けているわけであります。逆に言えば、この波長が完璧に合うと思えば、私の分厚い心の壁を越えて、コロッと推しになる気がします。たぶん。

知らんけど

という言葉を私はそこそこ使いますが、それには理由があります。
断定的な言葉を使ってしまうと発展の余地が無くなる感じがするからです。
「そこで議論は終わり」と言っているような気がしてなんだかムズムズ(?)モヤモヤ(?)するのです。
私は理系の端くれとして、たしかに、論理を組み立ててある程度の正しさを保証できるものには断定の判を押したいと思っています。けれども、ツイッターや会話など短文で適当に騒ぐにあたっては「私が正しいと思っている事」と「本当に正しい事」の一致は至難の業であり、ほぼ不可能なのではないかと疑ってやまないのです。
石橋を叩いて渡るとはよく言ったものですが、私は用心に用心を重ねすぎた結果、本当に大丈夫なものなどないのだからグレーゾーンのまま突き進んでしまう生き方を身につけようとしたのです。
でも、グレーゾーンというぬるま湯につかり過ぎて、本当は危ういという疑いがある事を忘れてしまわぬようにしたいとも思います。
結局、なんとなく石橋ぽいものをなんとなく叩いてなんとなく大丈夫そうだと思って渡る、くらいのことしか私には出来ないのです。
時々、その「なんとなく」のハードルが高くなってしまうので「雑に」とハードルを意図的に下げながらなんとか人生をやっています。

という自分語りでした。

以上。

P.S. 私が好きなジョークをひとつ。
「人生を続けた人の死亡率は100%です。人生は危険です。今すぐ人生を辞めましょう。」